浮世絵で見る江戸・砂村

第9回 開拓者・砂村新左衛門〜その4

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

新左衛門、男の夢を叶える

またまた、今回も読者の方から質問が来てるんですけど…。



好きな女性のタイプは柴咲コウと武井咲だな。



前回に続いてそんなこと誰も興味有りません。今回の質問はこんな内容です。「今のように重機やパソコンの無い時代、大がかりな土木工事は誰の指導で、どうやって行ったのでしょうか」

いい質問だね。まず、重機だけど、江戸時代には何もないから全て人力だ。その代わり大量に人を動員するわけ。人間掘削機に人間ダンプね。こういった土木工事を請け負う専門の組織を黒鍬組なんて呼ぶんだ。土木工事の事業主体は幕府、藩、豪商、農民自身といろいろあるけど、幕府や藩の場合は普請と言って今で言う公共事業だから、システムそのものはたいして変わらない。請け負い業者が工事計画とかコストの見積もりとか、測量データとか、今ほど正確ではないにしても、かなり詳細な書類を提出して、入札にかけられ、落札されてから仕事に入る。

談合とかもあったりして…。



勿論あったよ。談合は桃山時代頃から始まって、江戸の都市整備で日常化したと言われている。役人への賄賂や業者丸投げもその頃からだ。でもね、こうした公共事業が増えれば、それだけ周辺産業も潤って景気も良くなるし、求人も増える。悪いことばかりじゃないんだ。

新左衛門さんのような技術者も活躍できるわけね。



そういうこと。火薬を使う発破の技術も、戦国時代にはあったというから、重機とかパソコンがなくても、普請奉行をトップに、民間の事業主や技術者が、蓄積されたノウハウと人海戦術で補っていたんじゃないかな。特に治水工事は江戸時代最も盛んに行われていたからね。技術的にも向上したはずだ。

じゃあ、新左衛門さんは仕事には困らなかったのね。



福井藩にとっても河川の氾濫を防ぐことが生産性向上の第一歩だったからね。松平忠昌にとっては、兄の不始末で削られた25万石をどうやってカバーするかが最大のテーマだ。まず治水、並行して新田開発というのが緊急の課題だったと思うよ。

でも、いくら新左衛門さんが優秀でも、お殿様と土木工事の請負業者じゃあ、身分が違いすぎるでしょ。直接のクライアントにはならなかったんじゃないの?


ところがどっこい、忠昌と新左衛門が知り合った経緯は良くわからないけど、2人が強い信頼関係にあったことは資料で確認できる。だから、この頃すでに新左衛門が若くして普請請負業者のリーダー格になっていたと考えていいんじゃないかな。しかも、忠昌とはわずか3歳違い。お互い20代半ばで年が近いということがむしろ有利に働いたとも考えられるね。

ヤングリーダー同士で、やる気満々ってことか。でも江戸時代って封建社会でしょ。



新左衛門より少し後に生まれたけど、新左衛門よりずっと出世した例もあるよ。河村瑞軒だ。伊勢の貧しい農家の子として生まれながら、江戸で人夫頭として頭角を現し、その後材木商、航路開拓者、治水工事のプロとして晩年には旗本にまで登りつめた。

本当? 初めて聞いたわ。農民でも立派な武士になれたのね。



新左衛門は忠昌という大きな後援者を得て、福井で最初の成功を得る。そして成功した証に、男の夢を実現するんだ。ムフフフ。


何含み笑いしてるんですか? 気持ち悪い…。



気持ち悪いとは失礼な! 新左衛門は三国に別宅を構えて、そこで愛人と一緒に暮らし始めるんだ。あ〜、ワタシも見習いたい。


愛人って…。信じられない。それが男の夢なの?



その通り。でもね、新村の妻や弟たちをないがしろにしたわけじゃない。度々故郷に帰って稼ぎも分け与えていたようだ。そして、忠昌の了解を得て晴れて砂村の姓を名乗ることになる。さらに妻との間にできなかった子供も、愛人が授かって新左衛門は父親になった。

すべてが蔵三さんとは正反対の人生なのね。



うるさい、ほっとけ。それから十数年、越前福井藩の仕事が一段落してから、新左衛門は忠昌の後援を得て全国に視察に行くんだ。有望な開拓地を求めてね。中国、四国、関東、北陸、近畿と渡り歩くんだけど、そこで得た結論は、自分の故郷である北陸には、なかなか有望な土地がないということ。そんな中、参勤交代で忠昌が江戸にいる時に新左衛門も江戸に行くんだけど、そこでやっと手に入りそうな土地に出会う。

それが今の東陽町?



東陽町はまだまだ先の話。その頃すでに江戸の開拓はほぼ終わっていたからね。新左衛門が見つけたのは今の横須賀、内川の入江だ。新左衛門は、おそらく忠昌からの融資でその地を入手した後、廃寺同然だったの寺を復興する。開拓のシンボルとしてね。それが今も残る満蔵院正業寺だ。

お寺の復興って、誰にでもできることじゃないわよね。



当然、忠昌のバックアップがあったからできたことだ。しかし、関東の新田開発を手がけ始めたばかりの新左衛門が、忠昌への恩返しとして、三国に戻って川岸の埋め立て工事を始めた時に、忠昌が江戸で急逝する。まだ46歳の若さだった。

あらら、新左衛門さんには、いいことばかり続いていたのにねぇ…。



忠昌亡き後、新左衛門に残っていたのは家臣達の冷たい視線だけだった。嫉妬されるくらい忠昌と新左衛門の絆は深かったんだな。すでに三国の仕事はやり尽くしたと考えた新左衛門は、50歳を目前にして心機一転、妻と弟たちを引き連れて大阪へと旅立つ。三国の土木工事は妾との間に生まれた息子に任せてね。

←内川新田開発記念碑(神奈川県横須賀市)

ページトップへ戻る