浮世絵で見る江戸・砂村

第8回 開拓者・砂村新左衛門〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

運命の出会い

今回も、読者の方から質問が来てるんですけど…。


好きな食べ物ならおはぎとカツカレーだけど…。


そんなこと誰も聞いてませんよ。こんな内容です。「江戸時代のお米とお金の話、とても興味深く読ませていただいたのですが、お米とお金が同じように価値を持っていたという感覚が、いまひとつ実感できません。もう少し詳しくお話いただけませんでしょうか」

う〜ん、困ったなぁ。米の話にしても、堂島の米相場が、世界初の先物取引市場だったとか、貨幣にしても、関東は金相場、関西は銀相場で、藩が独自に発行する藩札なんてものもあったとか、江戸時代の経済は凄くユニークで複雑なんだ。だからこの話はまた別の機会にじっくり話すことにしよう。

それで納得していただけるかしら? でも、今回は砂村新左衛門がテーマですもんね。話を先に進めないと。

そうだな。新左衛門が慶長6年(1601)ぐらいの生まれという話は前回したよね。「ぐらい」という程度だからはっきりとはわからないんだけど、亡くなった年の記録は残っているから逆算したということだろうね。生まれ故郷は越前、今の福井県鯖江市のあたりだ。今の鯖江市はめがねのフレームと漆器で有名だけど、当時は真宗誠照寺派の本山である誠照寺の門前町という位置づけだな。

ナントカ藩の生まれっていうわけじゃないの?


生まれ年を見ればわかるように関ヶ原の翌年だろ。まだ江戸幕府の成立前だ。幕藩体制の初期には天領、福井藩、小浜藩領によって分割されていたけど、慶安元年(1648)に吉江藩が立藩されて統合される。その5年後にこの地に生まれた有名人が近松門左衛門だ。

新左衛門に門左衛門ねぇ…。それで、砂村新左衛門が生まれた家は鯖江の農家だったの?

うん。新左衛門の父、初代新左衛門はやっぱり開拓農民で、兄である福岡新兵衛の土地を耕す小作農民だった。しかし、新左衛門の伯父にあたる福岡新兵衛というのは、苗字を持っていることからもわかるように、元は武家の家柄だったんだ。この新兵衛の曾祖父に当たる福岡三郎左衛門石見守は、朝倉義景の家臣だった人だ。

親子の名前が一緒だからわかりにくいけど、要するに元々は名門だったのね。

越前朝倉家が信長に滅ぼされてから、福岡三郎左衛門は義景の娘を連れて逃げる途中で自害、残された福岡家の一族は武士を捨てて農民になる道を選んだというわけ。

戦国時代の悲話って感じね。



今みたいに生き方の選択肢がたくさんある時代ではないからね。福岡三郎左衛門の孫である新兵衛、新左衛門兄弟は九頭竜川上流の砂地を開拓してそこに定着した。しかし、初代新左衛門は3人の男児を残して早世したから、長男の政次が父の名を継ぐことになった。これが本編の主人公、二代目新左衛門だ。

もともとは政次って、割と今風の名前だったのね。


開拓地というのは、そもそも条件面で恵まれた土地ではないから、維持するのにも苦労したはずだ。特に灌漑、治水に関するノウハウが重要だったんだ。新左衛門のユニークな点は、殆どの開拓農民が自分の土地を手に入れることがテーマだったのに対して、開拓そのものがテーマだったという点だ。

えっ? どういう意味?



わかりやすく言えば、経営者というより技術者指向だったということ。だから、全国各地の新田を開拓したのに、自己資金を投じて開拓した新田は、生涯一箇所しかない。

技術者って、今で言うとどういう系統の技術者になるの?


土木工学だろうね。具体的には、石垣などで堤防を作ったり、木や石で樋門を作る技術。あとは農業用の水路とか橋とか貯水池を作る技術ね。

でも、そういう技術って、どうやって勉強するのかな。当時は農業学校なんてないでしょ。

それはもう、実地で学ぶしかないよね。新左衛門は結婚は早かったけど子供がいなかったから、割と体の自由がきいたんだろうね。現在の坂井市三国町に出稼ぎに行って、いろんな事を学ぶんだ。

三国町にはどんな仕事があったの?



三国は九頭竜川の下流にある湊町、つまり物流拠点だった。この地には木材や石材を扱う廻船問屋もたくさんあったから、石材や木材の切り出しや加工を直接学ぶことができたし、九頭竜川は古代から「暴れ川」で、洪水が日常茶飯事だったから、治水、土木工事の下請けも多かった。

土木工事を一から学べる土地だったのね。


三国は当時福井藩の領地だったんだけど、初代藩主は家康の次男、結城秀康で67万石の大藩だった。これを受け継いだのが結城忠直。ところが、この殿様が幕府に対して反抗的態度を繰り返したものだから、元和9年(1623)に隠居させられる。このへんのエピソードを題材にしたのが菊池寛の『忠直卿行状記』だね。

雷蔵さまの映画で観たことあるわ。人間不信になっちゃうのよね


キミの口から市川雷蔵の名が出るとは意外だけど、この忠直の弟が翌年に福井藩主になる。松平忠昌だ。忠直の時代には75万石まで加増されていたのが、分割されて50万石になるんだけど、それでもやっぱり親藩には変わりない。そしてこの忠昌との出会いが、新左衛門の人生を大きく変えていくんだ。

←福井藩主の居城であった福井城の石垣と内堀

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