浮世絵で見る江戸・砂村

第7回 開拓者・砂村新左衛門〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

大名も庶民も脚気だらけ?

ええと、読者の方から質問が来てるんですけど…。


プライベートなこと以外なら何でも答えるよ。


蔵三さんのプライベートについて質問する人はいないと思いますけど、こんな内容です。「新田開発と言うことで、単純な疑問なのですが、私が幼い頃は東京を始め、首都圏にもにたくさんの田園地帯がありました。今日本の人口は1億2800万人ですが、首都圏は都市化が進んで、田畑も減っています。しかし、それでもお米は余っていると聞きました。今よりもずっと人口が少なかった江戸時代に、そんなにお米を増産する必要があったのでしょうか」

ははぁ、なかなか鋭い指摘だねぇ。これはちょっと、マジメに答えないとイカンなぁ。

当たり前じゃないですか。でも、江戸時代で、砂村新左衛門さんが活躍した頃の日本って、どのくらいの人口だったのかな?

新左衛門は慶長6年(1601)ぐらいに生まれて 寛文7年(1668)に亡くなっているから、その頃の推定人口を調べると、まぁ、諸説あるけど1650年を基準として1700万人から2500万人ぐらいかな。

え〜、それじゃあ今の人口の2割にも満たないじゃない。


秀吉の天下統一でやっと全国が平和になって、農民も戦に駆り出されずに済むようになったから、この頃から人口も増え、食糧の需給も伸びていくんだけど、野菜に比べて米というのは高度な生産技術を必要とするし、まだ灌漑技術も未熟だったから、水田に使える面積も限られていたんだ。要するに米は昔から主食ではあったけど、高級品でもあったんだよ。

だから、田んぼにできそうな場所はどんどん田んぼにしようとしたのかな?

それもある。今の同じ面積で換算すると江戸時代の技術では今の収穫量の半分から1/4ぐらいしかとれない。しかも、食べる量は大人ひとり当たり1日5合は必要だったからね。

えっ?5合って多すぎない?ウチの炊飯器は5合炊きだけど、今まで5合も炊いたことないわよ。

それは今の時代の感覚でしょ。この頃の食事は一汁一菜を朝晩の1日2回というのが基本。要するにおかずなんか殆どないから、米ばかり食べるわけ。米と味噌汁だけ食べろって言われたら、キミだって1日5合ぐらいは食べられるよ。

それじゃあ、栄養バランス悪いでしょ。太りそうだし。


お米って言っても、今のように白米じゃない。玄米のまま食べるからむしろ栄養バランスは取れていたんだ。江戸時代に入っても白米を食べていたのは大名ぐらいで、一般に普及し始めたのは江戸中期以降、それも江戸や大坂といった大都市での話だ。。

ふ〜ん、日本人が白いご飯を食べるようになったのは、そんなに昔のことじゃないのね。

キミがさっき言ってた「栄養バランス」の話だけど、地方から江戸屋敷に赴任してきた武士が、赴任中に白米ばかり食べていたら、ビタミンB1が不足して国許に帰る頃には脚気になっていた、そんな例を「江戸患い」なんて呼んでいたらしい。

ははぁ、今で言う「贅沢病」ってことね。


だから将軍家光も綱吉も脚気だったらしい。ちなみに日露戦争では、陸軍が食料として白米ばかり支給したから、海外に行った兵隊さんの1/4が脚気になったという笑うに笑えない話がある。

でも、いろんな料理を食べてる将軍だって脚気になるくらいだから、ほとんど主食だけの一般庶民はどうしようもないわよね。

江戸中期以降には蕎麦が流行し始めて、これが脚気の妙薬になるんだな。蕎麦には結構ビタミンB1が含まれているからね。一時米食をやめて蕎麦を食べると、脚気が良くなったらしい。でもね、そんな悩みは裕福な武士や町人の話で、農民は米なんか殆ど食べられなかったから、栄養失調はあっても、脚気なんて無縁の話さ。

自分たちで作ったお米を自分たちで食べられないなんて、ひどい話じゃない。

当時はお米を年貢として徴収して、それを経済的・財政的基盤にしていたから、基本的に税を払うのは農民だけだったんだよ。その背景には石高制というのがあって、まぁ一言で言えば、お米の実質収穫量イコールその藩の総生産高、つまり経済力ということだな。

わかるようなわからないような…。



金本位制って聞いたことがあるだろ。貨幣価値の共通基準が金ということだ。当時の日本経済は米本位制だったわけ。大名は税として集めたお米のうち、自分たちが食べる分を残してあとは換金する。つまり、お米とお金は同じ意味だったんだよ。話がちょっと難しくなるけど、江戸時代の日本は米本位経済と貨幣経済が並立するという、凄く特殊なシステムだったんだな。

う〜ん、ますますわからない。



支配者側、つまり幕府にとって石高制はメリットが大きかった。これを採用すると、大名の所領を動かしやすくなる。同じ石高だから来年はここに行ってねとか石高を上げるから、田舎の方に引っ越してねとか、そんな風にして処罰や報償の対象にしたり、一カ所に長く留めないことで諸大名が不必要に力を持つことを防ぐことも出来るわけ。

ふ〜ん。よくわからないけど、大名としてはお米を必要以上にたくさん作った方が、よりお金持ちになれたってことよね。

まぁそういうこと。基本的にはそれが新田開発の原動力だ。食糧を生産するというより、お金を生んでいくと考えた方がわかりやすいだろ。ただ、お米って言うのは天候や自然災害によって収穫が左右されるからね。その分、米相場、つまり米価は凄く不安定になるわけだ。そこが米本位経済の問題点でもあったんだけどね。

←江戸時代の田植え風景(歌川広重・東海道五十三次から「掛川 秋葉山遠望」)

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