浮世絵で見る江戸・砂村

第6回 開拓者・砂村新左衛門〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸のフロンティア・スピリット

さてと、今回から砂町という地名の元になった砂村ナントカさんのお話ですが‥。


ナントカはないだろ。砂村新左衛門だろ。



えっ?大左衛門?



それは「いなかっぺ大将」だろ。ニャンコ先生も忘れるなってか?まぁ、キミが知らないのも無理はないな。全然有名人じゃないからね。しかも、調べようったって資料も少ない。けっこう謎の多い人なんだな。

謎って言えば、砂村っていう地名は、その砂村さんから取ったんでしょ。だったら、町になるときは砂村町じゃなきゃおかしいんじゃない。

キミと同じ事を永井荷風も随筆に書いてるよ。「砂村は今砂町と改称せられているが、むかしの事を思えば『砂村町』とでも言って置けばよかったのである」(元八まん・甲戌十二月記)とね。要するに大正10年に町制が施行されたんだけど、その時に何も知らない行政の担当者が安易に砂村をそのまま砂町に変えちゃったというわけだ。

土地の名前ってそれぞれ意味があるのに、すぐに合併とかで変えちゃうから、歴史がわからなくなるのね。

キミもたまにはいいこと言うね。それはそうと、あれはビックリしたなぁ。「業平橋駅」がなんで突然「とうきょうスカイツリー駅」になっちまうんだよ。あれはさぁ、平安時代の有名なプレイボーイ、在原業平に所縁のある場所だから業平橋っていうんだよ。

別にいいじゃない。「スカイツリー」の方がわかりやすいもの。


良くないよ。「言問橋」だって業平が詠んだ「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」っていう歌が元になってるんだ。

へぇ〜「言問団子」なら知ってるけど、歌は知らなかったわ。どういう意味?

業平が主人公とされる「伊勢物語」の八段に出てくるエピソードだ。東国に下った主人公が隅田川のほとりまでやってきて舟に乗る。そこで見かけた水鳥の名前を船頭に聞くと「都鳥」と答える。「都鳥」っていうのは今で言うゆりかもめのことらしいんだけど、都という言葉を聞いて主人公がついつい京の都を思い出し「都鳥という名前なら、京都のことを知っているだろう。お前に尋ねてみたい。都に残してきた愛する人は生きているのか、いないのか」という歌を詠むわけだ。

なかなかステキな話じゃない。さすが平安のプレイボーイね。っていうことは、今の言問橋のあたりでその歌を詠んだっていうこと?

実際に歌を詠んだとされる場所は、むしろ今の白鬚橋の辺りにあった「橋場の渡し」だと言われているんだ。じゃあ、なぜ離れた場所に事問橋があるのかというと、現在有力なのはさっきキミが言ってた「事問団子」、このネーミング自体は業平にちなんだものらしいんだけど、それが明治の頃から人気になったんで、店の近辺が事問ケ岡という地名になって、それが派生して橋の名前になったという、なんともツマラン説なんだけどね。

あはは。お菓子が橋の名前になるんだったら、スカイツリーが駅の名前になってもいいじゃないの。

だからさぁ、ロマンがないだろ、ロマンが。そもそも「業平橋」だって業平終焉の地と言われる場所に「業平塚」というのがあって、それが「業平天神社」になって、やがて業平橋という名前を生むわけだよ。だけど、実際には、業平が東国に来たことはあるようだけど、東国で死んだわけじゃないから、史実には反する。結局すべては想像の産物なんだ。でも、そこがいいと思わないか?愛する女を思いながら、男は最果ての地で死んでいくっていうのがロマンなんだよ。

平安時代の東京だったら、確かに最果ての地かもねぇ。昔の人って結構ロマンチックだったんだ。

「千早振る」なんて落語もあるくらいだからね。江戸っ子にとって業平っていうのは馴染み深い存在だったんだ。まぁ、それにしてもキミのせいでだいぶ話が横道に逸れたな。そろそろ本題に戻ろう。

話が脱線するのはいつも蔵三さんじゃないですか。ワタシはいつでも真っ直ぐの一本道ですよ。

何が一本道だよ。話が一方通行なだけじゃねえか。まぁいいや。砂村新左衛門が江戸に来て砂村新田を開拓したから砂村という地名になったというのは以前話したよね。この人は農民なんだけど、ただの農民じゃない。今で言う土木技術者だな。しかも相当優秀だ。新田開拓の技術に関しては、おそらく当時のナンバーワンじゃないかと思う。

そういえばウチの近所の富賀岡八幡宮に、その人の石碑があったような気がする。


気がする、じゃなくて実際にあるよ。砂村新田にしたって、一族総出で何にもない広大な干潟を埋め立てていったんだ。普通の農民に手が出せるような場所じゃないよ。

新左衛門さんが開拓した場所って他にもあるの?


横須賀の内川新田、横浜の吉田新田が有名だね。他にも今の大阪市や坂井市でも新田や新畠を開拓したという記録が残っている。故郷は越前、今の福井県鯖江市だからね。北陸から近畿、関東を股に掛けて新田開拓の旅を続けたわけだ。何とも素晴らしいフロンティア・スピリットの持ち主だな。

そんな凄い人なのに、どうして資料が残っていないの?


前にも言ったろ。要するに歴史というのは支配者が作るものなんだ。江戸時代に農民の記録を残そうなんてヤツはいない。商人の場合は帳簿なんかを残すから、ある程度判る部分もあるんだけどね。

そうかぁ…。前途多難な感じ。



大丈夫。溝手正儀さんという人が詳しい調査をして本まで出しているからね。これは大変な労作だよ。基本的にはこの本をもとにして話を進めるから、キミも少しは勉強しなさい。

←富賀岡八幡宮にある砂村新左衛門の顕彰碑

ページトップへ戻る