浮世絵で見る江戸・砂村

第5回 元八まんの謎〜その5

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

今も残るお岩の亡霊?

ところで、江戸時代、砂村という場所のイメージを決定的にしたある歌舞伎の演目があるんだ。これは有名だからキミでも知ってると思うよ。

ワタシが知ってる歌舞伎?全然わかんないけど‥。


あはは。歌舞伎っていうとわからないかもね。でも、怪談と言えばわかるだろ。『東海道四谷怪談』だ。四代目鶴屋南北の作で初演は文政8年 (1825) 。黒船が浦賀沖に来るのが1853年だから、もう幕末に近い頃の大ヒット作だ。ちなみにこの年、幕府はフェートン号事件を教訓に「異国船打払令」を発布している。

あ、それなら知ってる。お岩さんの話でしょ。でも、それだったら題名にある通り、四谷の話なんじゃないの?

四谷って言っても、舞台は今の新宿区四谷じゃないよ。豊島区雑司が谷の辺りを、昔は雑司ヶ谷四谷町と言ったんだ。ただし、話の元ネタになった『四谷雑談集』で取り上げられた田宮家は新宿区四谷にあるというなかなかややこしい話で、要するに実話をフィクションにする際に、そのままではまずいので同じ地名の場所にすり変えたということだな。

その辺の事情は良くわからないけど、どっちにしても砂村とは関係ないじゃないの。


ところが大ありなんだよ。ストーリー全体で最大の見せ場となる第3幕、ここで有名な「戸板返し」という演出がある。

それって有名なの?全然聞いたこともないけど。


しょうがないなぁ。それじゃ、ざっと説明しよう。お岩の夫伊右衛門、これが相当のワルなんだけど、この伊右衛門が川で釣りをしている時に、直助という小悪党と再会する。この直助が川で櫛を拾って持ち帰るんだけど、それはお岩の持っていた櫛だった。その後、伊右衛門の再婚相手で、伊右衛門が手にかけたお梅の母であるお弓と出会った伊右衛門は、お弓を殺す。そこへ川上から見覚えのある戸板が流れて来る。引き上げてみるとそこにはお岩の遺体。その遺体が怨みの言葉を語り始める。怖くなった伊右衛門が戸板を裏返すとやはり伊右衛門が殺した下男、小平の遺体がくくりつけられていて‥。

わぁ、気持ち悪い。伊右衛門って聞いてるだけで3人以上殺してない?


劇中で伊右衛門が殺害するのはお岩の父、お梅の祖父と母の3人で、小平は折檻死、お岩は伊右衛門に毒を盛られるけど、最終的には按摩の宅悦と揉み合っている最中に死ぬ。まぁ、そんな展開だから、観客側から見ればどんどん伊右衛門が憎らしくなるような巧みな演出で、さらに初演では、これを忠臣蔵と同時進行で2日がかりで上演したんだ。1日目は忠臣蔵の大序から六段目まで、次にこの四谷怪談の三幕目までをやって、2日目に忠臣蔵の7段目から討ち入り直前まで、そのあと四谷怪談の四・五幕目、ラストまで、最後に忠臣蔵の討ち入りっていう順番だ。

へぇ〜、江戸時代としてはかなり斬新よね。見ている方は2日間も欲求不満が溜まるから、最後の最後でムチャクチャすっきりするわよね。

再演以降は、四谷怪談で伊右衛門を討つ与茂七が、忠臣蔵では義士のメンバーだったという設定で、2つのストーリーを合体させている。両方とも基本的には仇討ちだから、観客もストーリーに入り込みやすいし、相乗効果もあったと思うよ。だから空前の大ヒットになった。

それはわかったけど、結局どこが砂村と関係あるのよ。


三幕目で伊右衛門が釣りに行くって言っただろ。その場所が砂村穏亡堀。現在の場所で言うと、横十間川親水公園にある岩井橋の下辺りなんだ。

え〜!岩井橋ってちっちゃな橋でしょ。砂町銀座だって近いし、あんな所で怪談話なんて信じられないなぁ。

実は、幕末頃の江戸には荼毘(だび)所と呼ばれる火葬場が7個所あって、そのひとつが砂村にあった。この火葬場は明治まで続いていたらしいよ。で、穏亡というのは、火葬に従事する人のこと。要するに火葬場の近くを流れる堀だから、そこが「穏亡堀」と呼ばれるようになったわけ。

いかにもお化けが出そうな場所ってことね。



そう。でも、鶴屋南北がここを舞台にしたのは他にも理由があるんだ。当時、ある旗本のお妾さんが中間と関係を持ったことがばれて、二人は一枚の戸板に釘付けにされて、惨殺された上に神田川に流されたという話。これに加えて、固く体を結び合った心中男女の遺体が穏亡堀に流れ着いたという話。この2つの実話がうまく合体して第3幕に活かされたわけ。

現実のニュースを知ってる分、お芝居にリアリティがあったということね。


当時の堀割はドザエモン、つまり水死体がたびたび発見されたり「河童が出る」なんて噂が囁かれる場所だった。特に灯りのない夜は江戸市民にとってちょっと不気味なところだったのかもしれないね。

あ〜あ、ウチの近所なのにぃ〜。聞かなきゃ良かったな。なんだか、あの辺通るのが怖くなってきた‥。

あはは。今はもう、そんな面影はないから心配することはないよ。現在の清洲橋通りは、江戸時代には境川という川だった。穏亡堀というのはこの境川と横十間川の交差する辺りにあったんだ。

あ!



何だよ、怪談話の後で急にびっくりさせるなよ。


もしかして‥、岩井橋って‥。



そのもしかしてだよ。岩井橋の岩は、お岩さんの岩なんだ。ああ、うらめしや〜〜。
<この項終了>

←歌川国芳筆「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」
       横十間公園岩井橋。穏亡堀の現在の姿→

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