浮世絵で見る江戸・砂村

第2回 元八まんの謎〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

東陽町はゴミの上?

「元八まん」の謂われについては何となくわかったような気がするけど、そもそも砂村ってどんな土地だったの?


まぁ、田んぼ以外何もなかったと言っていいだろうね。もともとは埋め立て地ですよ。深川だって昔はただの湿地帯だったんだ。そういう意味では、江戸の都市開発の歴史は埋め立ての歴史といってもいい。

埋め立てって、どっからどの辺までを埋め立てたんですか?



それを話すには、まず江戸の始まりから話さないとね。関ヶ原の10年前、有名な秀吉との小田原「立ちション」会談で強引に勧められ、それまでの領地と泣く泣く引き替えに家康が江戸に入った天正18年(1580)頃は、130年も前に太田道灌が建てた旧江戸城、これは城というより砦といった方がいいような代物だったけど、これ以外何もなかったらしい。城は海側の湿地帯に接していて、背後は鬱蒼とした武蔵野丘陵だ。要塞としては最高に守りやすい場所だったけど、城下町を作るには家を建て、街を作るための平地に乏しい。そんなわけで家康は城作りよりもまずは街作りを優先させようと考えた。そこで手始めに神田山を削って日比谷の入江をどんどん埋め立てていったんだ。

えっ?何?「立ちション」会談って…。



秀吉が北条氏の小田原城攻めの時に、家康を連れションに誘って「小田原が落ちたら関八州を授けましょう。江戸に城を造れば良い」と囁いたという伝説だな。何もない関東をあげる代わりに家康が築き上げた地盤である駿府から東海道周辺を奪って、力を削いでしまおうという計算だ。駿府は家康が血と涙で発展させてきた土地だからね。悔しかっただろうけど、そこは「鳴くまで待とう」の御仁だ。それならば自分の天下が来るまでに江戸を一流の城下町にしてしまおうと考えたわけだ。

へぇ〜。やっぱり一流の人って発想の転換が早いのね。でも、神田が山だったっていうのは初めて聞いたわ。


うん。神田の山を埋め立て用に削ったから山じゃなくて本郷台地になっちゃった。後にその台地が神田川の開削で分離され、南側の方に家康を慕う家来達が駿府から集まって住み始めたから、そこが「駿河台」という地名になったらしい。

へぇ〜。で、その神田山の土はどこに化けちゃったの?



まずは現在の丸の内、八重洲付近から始まって、慶長年間には日本橋、京橋、新橋辺りを埋め立てた。同時に物流路を確保するために、小名木川や新川など大小様々な水路を造ったんだ。「東洋のベニス」建設の幕開けだね。小名木川開削で出た土は隅田川東部の湿地帯に使われた。これが江東地区埋め立ての始まりということになる。

ってことは、深川とか砂村もその頃から埋め立てられていったっていうこと?



その通り。隅田川の東部というのは市街地に近い上に、三角州や浅瀬が多かったから埋め立てて農地や住宅地を確保するには格好の場所だったんだ。今の常盤、新大橋、高橋付近は慶長元年(1596)ぐらいから埋め立てて、その後深川八郎右衛門を中心に開拓、それで深川村という名前になった。続いて海辺新田と呼ばれた清澄、白河、扇橋付近、深川猟師町と言われていた佐賀、永代、福住の辺りまで埋め立てが進んだ。北砂、東砂辺りの開拓は時代が下って寛永から正保(1624〜1647)の時代に始まったようだね。

深川ってもともとは人の名前だったのね。



砂村も、万治年間(1658〜1660)に砂村新左衛門とその一族が大規模な新田開発を行ったからそういう地名になったんだけど、今の東陽町から洲崎一帯、門前仲町の永代通りから南の辺りはちょっと事情が違う。永代島とか越中島もそうだな

事情が違うって、どんな風に違うんですか?



実は今で言う「夢の島」なんだ。もともとはゴミの山なんだよ。江戸の人口増加に伴って、ゴミ問題が深刻化していった。そこで明暦元年(1655)に江戸市中のゴミを舟で運んで永代島に捨てよという幕府命令が出た。浅瀬のゴミが溜まるとそこを埋め立てて土地を広げる。その繰り返しが砂村や洲崎を産み出し、やがて広大な新田開拓地になったというわけ。

えっ、ってことは、ワタシは今ゴミの上に住んでるってこと?



まぁ、そういうことだね。江戸時代のゴミ処理場跡ですよ。そうしてできた広大な干拓地を鷹の目になって空から描いたのが広重の名作「深川洲崎十万坪(写真左)」だ。もっともこれが描かれたのは幕末。その60年前には寛永3年(1791)の大津波があって、一帯の民家は流され、幕府も家を建てることを禁じたから、冬の雪景色と相まってどこか荒涼とした雰囲気を漂わせているだろ。
この絵と「元八まん」の絵だけを見たら、なんか薄暗くて不気味な感じ。



だけどね、それは大横川より東、小名木川より南の話。深川・木場近辺については、ある事件を契機に劇的に変化していくんだ。

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