浮世絵で見る江戸・砂村

第10回 開拓者・砂村新左衛門〜その5

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:砂町なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

「秘すれば花」の生涯

それで、心機一転、大阪に行った砂村一家はどうなったの?



まずは福井藩からの退職金代わりにもらった廻船問屋の権利があったから、これを始めた。廻船問屋といっても北前船のような大がかりなものではなくて、三国湊と大阪湾の間で物流を行う程度だったけどね。しかし、そもそも新左衛門の目的は新田開拓だから、廻船問屋を商いながら、並行して曾根崎上流の砂河原を開拓したんだ。

新左衛門さんは多角経営の才能もあったのね。



この地で500石の新田を開拓した新左衛門は、大阪・上福島を拠点に物流・農業・土木の三足のわらじで一家を養うんだけど、やがて物流業を手放し、新田は弟に譲って、各藩の要請を受ける形で関東を中心に新たな開拓に着手する。

横須賀の方はどうなったの?



横須賀の内川は新左衛門の自己資金で開拓していたからね。活動の中心にはなっていたけど、この頃すでに新左衛門は新田開拓のプロとして全国に名を馳せていたから、各地で常にひっぱりだこで、一箇所に腰を落ち着けてはいられなかったようだ。しかし、そんな折も折、新左衛門にとって人生最大のチャンスが訪れる。

福井のお殿様に会った時より大きいチャンスってこと?



親藩とはいえ福井藩は地方だからね。今度はメジャー中のメジャーである江戸だ。明暦3年(1657)、江戸で大事件があったのを覚えているかな?


覚えてますとも。振袖火事でしょ。



正解。で、保科正之や知恵伊豆こと松平伊豆守を中心に江戸の復興計画がまとまると、幕府は全国の土木技術者を江戸に召集する。この機を逃す新左衛門じゃない。早速、弟や甥を連れて江戸に馳せ参じた。新左衛門56歳の時だ。

56歳って、サラリーマンならそろそろ退職を意識する歳よね。



江戸時代だから、普通はとっくに隠居してるよ。でも新左衛門はやる気満々だ。早速受注したのが、霊厳寺の移転だ。霊厳寺はもともと霊岸島にあったんだけど、幕府の寺社移転計画で深川に移ることになったんだ。で、ここでも新左衛門は名声を得ることになる。

お寺の移転って、新田開拓じゃないから、本来は専門分野じゃないでしょ。



ところが、内川の廃寺を復興させるぐらい信仰に篤い新左衛門だ。霊厳寺の高僧、大誉珂山上人に会って薫陶を受けた新左衛門は、江戸で知己となった木材・石材商の吉田勘兵衛を中心に寄進を募り、殆ど材料費をかけずに3年足らずで霊厳寺の移築を成し遂げる。しかも、幕府から得たのはわずかな手間賃だけだ。

江戸で知り合った人たちとすぐに信頼関係を築くんだから、きっと新左衛門さんは魅力のある人だったのね。その点でも蔵三さんとは違うわ。


うるさい!ワタシだって世が世であれば…。まぁ、それはそうと大誉珂山上人からこの話を聞いた知恵伊豆は「それは感心。その新左衛門とやらに何か褒美をとらせよう」ということになった。そこで新左衛門はこう答えた。「江戸の近くで新田開拓を許可していただきとうございます」。

欲のない人ねぇ。っていうより、新田オタクって言った方がいいみたい。



オタクはないだろ、オタクは。財源確保に頭を悩ませていた知恵伊豆にとって、その申し出は渡りに舟だ。早速武蔵国葛飾郡の宝六島一帯の開拓を許可し、出資者の旗本まで紹介した。

やっと来たわね。それが今の砂町ってことね。



潤沢な資金を得た新左衛門は滞っていた内川の開拓にも専念できるようになった。それからは新左衛門が代表、弟の新右衛門が補佐、甥の新三郎が内川担当、新四郎が葛飾担当という体制を取るようになる。

江戸時代のファミリー企業って感じ。



葛飾の宝六島新田、後の砂村新田は順調に開拓され、しばらくは田んぼではなくて野菜畑として使われていたようだね。ここは基本的に埋め立て地で、穏やかな江戸湾に面していたから、新左衛門にとってさほど難しい土地ではなかったようだけど、難物は台風や春先の強風で樋門が流されたり堤防の決壊を繰り返す内川だ。加えて、木材石材商の吉田勘兵衛と共同で始めた横浜・野毛の新田にも手を焼いていた。この新田が後に勘兵衛の苗字を取って吉田新田と呼ばれるんだけどね。

難しそうなところは諦めて、江戸に専念すれば良かったのに。



実は、江戸には期待したほど新田開拓に向く土地がなかったんだ。それに、難しいテーマほど血が騒ぐのが技術者というものなんだよ。苦労続きの内川新田にようやく目途がついたのが寛文5年頃。新左衛門はすでに64歳で、体力的な衰えは隠しようがなかった。しかし、開拓者・新左衛門としては、まだまだ道半ばだ。

誰かに後を継いでもらわないとね。



すでに妻は病死しており、残る財産は2人の甥を養子にして均等に分配することにした。死を前にして新左衛門は33カ条の遺言を残している。自分の経験を綴った、半ば指導書のようなこの遺言が、新左衛門の生涯を知る上で最も大きな手がかりになっているんだけどね。

一見地味だけど、凄く充実した一生だったのね。何より、砂村っていう名前がちゃんと残っているじゃない。砂町になっちゃったけど…。


まだ人間がまっすぐに生きていた時代だ。保科正之も知恵伊豆も、自分の手柄になるような文書を一切残さなかった。それは新左衛門も同じ。だからいまだに謎が多い。新左衛門が砂村新田の屋敷で息を引き取ったのは寛文7年(1667)の暮れ。時代はゆるやかに武断政治から文治政治に移っていく。それから程なくして、新左衛門のような技術者、職人が脚光を浴びて、次々にベンチャービジネスが立ち上がり、江戸の町人文化が花開く。新左衛門は、そういった新時代の担い手の、いわば先駆けだったと言っていいんじゃないかな。
<おわり>

←正業寺にある砂村新左衛門の墓所(神奈川県横須賀市)。当初は浅草の善照寺に葬られたが、その後内川新田に移された

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